続…父を入れる事になるかもしれないグループホームって

 

先日「父を入れる事になるかもしれないグループホームって」という記事を書きました。
これから母といくつかのグループホームを見学に行く予定だ、と。

母の精神的体力的な負担を考えると、いずれお世話になる可能性は高いのではありますが、
今一度「グループホーム」「認知症」などの言葉でググってみました。

たくさん記事がありました。
どれから読んだらいいかわからないほどです。

つい先日まで私が知らなかった「グループホーム」でこれだけいろんな人がいろいろ書いているんだ。
またもや自分の知らないことがこの世にはまだまだ無数にあるということを思い知らされました。

そんな中から一つの記事を少し読んでみました。
→ こちら です。

読んでいて、認知症の本人が施設から帰りたがることとか、まるで今の父がショートステイで泊まりをする時の状況とそっくりです。
ショートステイでも帰りたがるのだから、もしグループホームに入れたら最初は間違いなく帰りたいと言うことでしょう。
「それは私も承知している」
などと思いながら読んでいました。

読みながら、涙が出てきましたね。
分かっていない部分が沢山あるのに、わかっている部分もしっかり残っているんですよ。
外に出れば迷子になるし、今日が何月何日かもわからないのに、でも自分の家という空間で生活しているということはちゃんとわかっているんです。
服の表裏も、自分がきちんとズボン履いてない事もわかってなかったりするのにね。

認知症。
だれもなりたくてなるわけではありません。
よく「物を考えてないからなるんだ。頭を使ってないからだ。」
という声も聞きます。
そうなんでしょうか?
認知症になる人って、物を考えてないんでしょうか頭使ってないんでしょうか。
もちろん少しはそういう側面はあるのかもしれませんが、私にはそうは思えません。

だれが、いつなるかもしれないのが認知症ではないかと思うのです。

今日本にはかなりの数の認知症患者がいるといわれています。
でも、その実情、まわりの家族の実情ってなかなか表立ったところには出てきていない気がします。
私がグループホームの存在を知らなかったように、普通に生活していたらあまり触れたり関係したりすることのない世界。

健康情報でもよく見るのはやはり「ガンにならないための…」というものです。
こわい病気といえば、世間ではやはり「ガン」です。
ガンも怖い病気ですが、今の私の気持ちとしては認知症になることの方が怖いです。

だって
「なった本人はそのことを自覚できていない」からです。

自覚のないまま周りに世話をかけることになる。
いや、父が母などに世話をかけていることを責めるつもりではありません。

でも、子を持つ親の一人として、自分がそうなった時に子ども達にかけるかもしれない負担を考えると怖い…という気分になるのが正直なところなのです。

今父は身をもって私に認知症という現実を教えてくれていると思っています。
ある意味ありがたいです。
「ありがとう、お父さん」
と言いたい気持ちです。

そして、さらに言いたいです。
「もういいよ。もうわかったから。学んだから。」
「だからもう元にもどってくれていいよ」

今の日本における認知症に対する医療事情、まだまだ納得できるものであるとは言えません。

もっと他に方法はないの?
中国などで取り入れられたという「音響療法」は、なぜ日本では試されることもないままなのだろうか。

ほかにもいろいろ。
思うところはあるのだけれど。

今はあともう少し、グループホームについて調べようと思います。

 

あ、最後に。
理想を少し語っていい?

バリアフリーでゆったりとした間取りで。
洗濯するのもそれを乾かすのも同線的に無理が無くて。
少し歩けるぐらいの広さの庭があって簡単なお花の水やりとかが毎日できて。
外気にあたれるサンルームというか広めのバルコニーのような場所があって。
ホームヘルパーさんに来ていただけて。
そんな、誰も無理のない形での生活を思い描くとなんだか心が明るくなるな。
私の力で、そんな理想の一部でも実現できてる生活をプレゼントする。
そういう気持ち…私はまだ手放してないよ、お父さんお母さん。