母の誕生日に実家に顔を見に行った。そして父のこと。

今すんでいるところから父と母が住む実家は駅で言うと4駅、自転車に乗って約30分のところです。
決して遠くはなく、むしろ近いのですが、近さ故にいつでも行けるという気持ちからそれほど足を運んでこなかったのが現状です。
昨日は母の81歳の誕生日でした。
誕生日といってもこれまでも気まぐれでしかお祝いしてこなかった薄情な娘。
でも、正直あと何度祝えるのか、そう思うとこれまでの無情な私の行動は後悔でしかありません。
とはいえ、過去は変えられず、今年はケーキ持参で顔を見に行ってきました。

前日に、「明日誕生日だね。お昼からでもケーキもって顔見に行くよ」
と言うと、「あらそう?愚痴の一つでも聞きにきてくれるの?じゃあ待ってる」
とのことでした。
今実家は父と母の二人暮らし。
父は認知症を患っており、その世話で母はかなり疲労がたまっていると思われます。
週に三回デイケアサービスの施設に行っている父ですが、短期記憶が衰え、生活の中でもあらゆることに気を配る能力がかなり低下しています。
排泄でも日々いろいろと問題があるらしく、その世話だけでも話を聞いていると、母はよくやっているなと思います。
私が同じ立場にあって、旦那に対してそれだけのことが出来るかどうか、今の自分としては自信ありません。

ともあれ、昔よく買っていたケーキ屋さんでショートケーキを買い、実家を訪れました。

日曜日だったので父も家にいました。
私が行くと喜んでくれます。
まだ、私のことはわかるようです。このままわかっていてほしいものなのですが、これから先のことはわかりません。
わからなくなってしまうのは悲しいなあ。

ケーキと共に「柿渋せっけん」をプレゼント。
柿渋せっけんは加齢臭(老人臭)に効くと言われていて、私がebayでも海外に販売している物です。
お年寄りに人気で、何度も繰り返し買ってくれているアメリカのおじいさんもいます。
かれこれ今までに200個以上は売ってきたかな。

ひとしきり近況などを母から聞き、少し父を散歩に連れ出ることにしました。

実は、コロナの影響で2ヶ月ほどデイサービスを休んでいた父。
6月の終わりあたりからまた行き始めたようですが、あきらかに体力(筋力)が低下しています。
家にいると座っているか寝ているかのどちらか。
方向などの認識障害を持っているのでひとりで外に出すことは出来ません。
母も足があまり調子よくないこともあって、日々散歩に連れ出すことはかなり困難な状態です。
デイサービスにいけば、マシンをつかって筋肉を動かすこともできるようですし、車で送迎とはいえ家にじっとしているよりは歩く距離もあります。
そういう「少し」の動きでも、やらなくなると急激に筋力が落ちるのですね。
ベッドから体を起こして立ち上がるのもなかなか大変そうな父を見て、その低下ぶりに愕然としました。

家のすぐ近くに小さな公園があります。
私達なら歩いて2分ほどの距離。
散歩にすらならないほどの近さですが、今の父はそれぐらいが丁度良い距離かと思いましたので、そこまで行くことにしました。

ゆっくり、ゆっくりと。
少し暑い日ではありましたが、暑すぎるというほどではなかったのが幸いでした。
太陽の光を浴びるのも大切ですからね。
「お父さん、太陽に浴びるの体にいいからね。普段なかなか浴びてないでしょ?」と言うと
「そうやなあ、太陽浴びるの、いいなあ」と一応それなりの受け答えはしてくれました。

公園についてベンチに座って休憩。
なにげに緑の木々をぼんやり眺めるのもいいものです。

本当なら、毎日でもこうやって連れ出してやりたいと思います。
短い距離でもこうやって少し歩くことは絶対筋力維持には有効でしょう。

実は…数ヶ月前に父は行方不明事件を起こしました。
駅で母がちょっと目を離した隙にいなくなってしまいました。
結局父は勝手に電車に乗り、昔勤めていた会社のある駅まで行ってしまっていたのでした。
それはそれはそのあと大変だったのだけど、結果は無事自分で家に戻ってきたという結末でほっとした事件でした。

あのときは、歩けるだけ体力があったんだな。
父を探しに歩き回り、交番に駆け込んで写真見せたり、とすごく大変だったのだけど
あの体力的に歩き回ることが出来た父が少し懐かしいというか、まだまだ今より良い状態だったのだな、と感慨深く考えてりしました。

帰り際、きれいに咲いているピンクの花を二人で見て
「きれいな色だね」「こういうきれいに咲いてる花を見るのって、いいね」と
小さな感動も脳に何らかの刺激になりはしないかと、懸命に父に話しかけました。

写真も何枚か撮りました。
そのうちの何枚かはとても素敵な笑顔でした。
なんか、その写真を見ていると涙がじんわりと浮かんできそうになります。

認知症なんて、誰もなりたくてなるんじゃない。
そして、なっているということそのこと自体、本人はどれほど自覚しているのだろうか。
ほとんど出来ていないです。

知らぬうちに、いろんな能力が少しずつ失われていき、自分では望んでいなくても周りの者の手を煩わす事態に陥ってしまうという現実。

周りももちろん大変です。
母の話を聞いていて思います。
老老介護の大変さ。
もし母が倒れたらいったいどうなるのか、本当にそう思います。
(そうなれば、私が世話するしかないでしょう)

認知症の原因はまだはっきりと解明されていないようですね。
日々頭を使っていたらならないとか言われたりもしますが、それとて確実なものではないと私は思います。

今の日本では、医学上認知症は治せません。
医者は治してくれません。
お薬は出してくれますが、そのお薬の説明には認知症を治せるなんてどこにも書かれていません。

日々、いろんなことでインターネットを利用していると
認知症に関わりありそうな情報に出会うことがあります。
自分でも知らないことはまだまだ山のようにあるようです。
知ったからといってすぐに私がどうこう出来るというものではありません。
でも、やはりいろいろ知りたいとは思います。

なんとか、父の認知症が良くなってくれないものか。
そして、母の日々の負担もなんとか軽くならないものか。

本心からそう思います。

お金で解決出来ることもあります。
それを痛感する時には、もっと自分が稼げる人間であれば…と強く思います。
そのためにもなんとか稼げる力をつけなければ、と思います。

気になる情報は今日も芋づる式に目の前に現れましたので、
それらをもう少し深く知っていきたいなと思います。

父に残されている時間はそれほど長くないかもしれないけど、
またいろんな事を自分ではっきり認識できて、もっとはっきりとした意識で日々過ごして貰うことができたら。

急に大きな事は出来ないかもしれませんが、情報収集はこれからも行い
記録に残して行けたらと思います。